巻タリアンニュース 第29号


活躍するOB 1935年(昭和10年)旧制巻中4年終了・同年北大入学
元・参議院議員・ 高桑栄松さん
北大医学部名誉教授 勲一等瑞宝章

文中一部敬称略
高桑榮松氏=2005年7月撮影
昭和55年2月、高桑栄松は北海道大学・医学部長を経て大学院環境科学研究科長をしていた。教授室の電話が鳴った。「国立公害研究所の所長をお願いしたい。北大を辞めて、引き受けてくれ」。受話器のむこうで、日本医師会のドン・武見太郎会長からの威勢の良い声が聞こえた。公害研究所(現・独立行政法人・国立環境研究所)は、我が国の環境科学における中枢研究機関である。ここでの最高責任者(当時所長職)の人選には、医学系・理工学系交互に約3年の各期を受け持つことになっており、武見太郎と茅誠司が各分野の推薦者として深く関与していた。

長年北大・医学部で研究・教育に従事して来た人生を、明日から変えれと言われ、困惑する高桑栄松。翌日上京し、武見会長に会った。ここで、予防衛生学を専門とする自分の役割の重要性を説く武見氏の論理を理解。200人の精鋭なる各分野の、科学研究者を統括することを視野に、24年間に及ぶ北海道大学を辞した。公害研究所では、研究者個々の分野におけるオリジナル性を重視し、全国の研究所とリンクさせながら、都市公害の予防研究、地球規模での環境解析に専念し、筑波研究学園都市で過ごした。所が、4代目所長として、これからその各論に着手すべき3年目を迎えた58年正月、又もや思いがけない誘いが舞い込んだ。これが参議院議員としての政治家になるきっかけで、公明党との始めての出会いであった。

1983年(昭和58年)第13回参議院選挙
参議院選挙は、かつて「全国区」なる制度があった。一票の格差が無く、一見公平に見える全国一律投票方式は、メディアに登場回数の多い有名人が立候補すれば、その人物が優れた政治家になる保証は全くなくとも、当選確率は高くなる。有権者は、誰に投票しようとかと迷った時に、知名度を優先して、その人物に投票してしまう。その結果、ひとりで何百万票も獲得する事となり、当選確立に関しては、偉大な恩恵に授かり宮田輝、高橋圭三・石原慎太郎・田英夫・扇千影・立川談志・横山ノックなどの当選者が生まれた。何十年か後に、試験問題で仮に「これらの人物の共通点は何か」と設問があったら、「政治家」と答えられるかは疑がわしい。全国区であるが故に、選挙運動には莫大なる経費がかさみ、資金力のみの勝負にもなってしまう。これらの是正策として成立したのが、第13回参院選から導入された「比例代表」制度である。全国区の如く、人名優先と異なり、各党に投票された得票数によって議席が配分されるので、良否は別として、支持母体の構成人員が多い政党は、当選者を予め確保する事が出来る事となった。

公明党の選挙戦術
「公明党」は党名を確立する以前から、参議院選挙で戦い、4人の当選を果した第4回参院選から毎回その数を伸ばし、党結成直後の昭和40年・第7回選挙後では合計20議席の陣容になっていた。この頃から衆議院選挙の準備をし、2年後の衆議院選挙で25人が当選するに至った。党を挙げて選挙公約でアピールした、環境・福祉問題は、選挙後に政党として取り組むべき重要なテーマであり、手を抜くことは出来ない。結党20年目を迎えた公明党は、比例代表方式となったこの機会を利用し、学識経験者や医学分野婦人運動などの各界で活躍する著名人を候補者に擁立する事を決め、環境・公害問題の権威である高桑榮松に、白羽の矢を立てたのであった。

党議拘束のない立候補への誘い
「高桑先生、国民の将来に役立つ活躍を、国会の場でお願い致します」。公明党幹部が説得に来た。「党議拘束は致しませんし、党員になる必要も全くございません」一瞬、きょとんとする高桑栄松。やがてその幹部による、「公明党・国民会議」創設の説明で意が汲み取れた。だが、自分が政治家として立候補する事は、どう考えても唐突すぎ、あり得なく、即答できない。高桑は、3年前の武見太郎を尋ねたときと同じ行動をとった。「先生に相談に乗ってもらおう」。
武見邸応接間で何時間か過ごし、いつもの気宇壮大な武見太郎の話が、高桑栄松の心を揺り動かした。「どのような分野においても、学問を追究してきた意義は、これが実社会に生かされる事で初めて完成を見る。政党から、学問を政治に反映する場を与えられたなら、これを拒む理由は何一つない。しかも、公明党は当選を保証しながら、拘束条件を全くつけていない。まっすぐな気持ちで受け、選挙に立ちなさい」武見節が続く。別れ際「私が応援するから」と、人なつこい眼差しで握手の手を差出してくれた。高桑栄松の決心はここでついたのである。

政治家・高桑榮松の功績
第114回通常国会での代表質問
(竹下登政権当時)
第13回・参院選(昭和58年6月)、730万票を越える公明党の得票数で、比例区当選者8名の中に、高桑栄松の名前があった。立候補時には、地元北海道医師会の推薦は無かったが、当選後は道内多数の医師会員が、後援会に名を連ねた。当時は、第一次中曽根康弘内閣成立2年目であった。自分の記念すべき初当院となった、第100回国会に始まり、野党連立政権となった村山富一時代を経て、橋本内閣直前の第132国会迄、参議院の政治家活動に邁進した。この2期12年間においては、科学技術特別委員長・運輸委員長、文教・環境・社労委員などを務めたが、73代総理・中曽根退陣後は、竹下・宇野・海部・宮澤・細川・羽田そして村山と目まぐるしく総理大臣が変わった時代であった。中でも、任期3年目を迎えた、第104回国会での予算委員会は、最も印象に残る国会であり、質問中全閣僚の目をパッチリ開けさせた事で、マスコミ命名の「居眠り閣僚なし国会」として語り継がれている。

国内エイズ患者14名の時代からの高桑発言
第104国会 予算委員会は昭和61年3月14日・午前10時に開議された。午後の部で最後となった高桑栄松が発議。高桑は「後天性免疫不全症候群(エイズ)に関して、癌と比較しその怖さの認識を各大臣にお聞きしたい」と冒頭で、居並ぶ閣僚に切り出した。安部晋太郎(外務)、河野洋平(科学技術庁長官)、今井勇(厚生)中曽根康弘(総理)、竹下登(大蔵)らの各大臣=質問順=は、夫々に「癌に比し、現況では解明度の低い、エイズの方により怖さを覚える。」と答弁。この様なプロローグで開始された予算委員会審議は、その後、政府委員らとの議論のやり取りで、厚生省などのデータを追及。更に恐怖感だけの観念論で終わらせないために、歯科医療現場での危険性を述べ、剃刀やコンタクトレンズ装着の際の感染を、科学的な根拠で説明し、各国の実情を例に挙げ、予防体制に主眼をおいた「献血時における血液エイズ抗体検査実施」の重要性を発言したのであった。当時の研究費をこれから予算化しようとする日本に対し、米国では既に300億円近く計上していた頃である。「日本の献血者は、年間900万人。エイズ感染検査を組み入れるための予算措置は、たとえ何億かかったとしても、即刻実施すべき」と高桑は結んだ。

エイズ抗体検査の実現
論議白熱した参院予算委員会は5時25分に散会。その直後に記者会見をした後藤田正晴(当時官房長官)の発表が、翌日の全国紙朝刊で各紙一斉に報じられた。「いい議論であった。予防は重大である。ゼニ金を惜しんではいられない。カネが無ければ政治決着でつける」。予算委員会において闘わされた、エイズ抗体検査の高桑発言は、驚異的な迅速性でその成果が実現へと歩み出した。エイズ対策・研究予算は7年後(1993年)に100億円の予算を超え、更に献血血液に対しては別個の予算で100%の抗体検査が実施される事になり、今日まで連綿と継続実施されている。

高桑榮松氏と東京分水会
第11回東京分水会大会にて
高桑榮松氏(旧姓・桜井)は、10人兄弟の8番目として、分水町地蔵堂で生まれた。兄弟には旧制・巻中で学んだ者が多く長兄の桜井三郎氏は、大正7年3月に卒業後、京大(法科)へ進み内務官僚となり、北海道警務課長、警視庁消防部長、福岡県警察部長などを経て、公選の初代熊本県知事(1947〜1959)を務めた。細川護煕氏は、この24年後、4代目の公選知事に就任している。高桑氏は、旧制巻中を成績優秀者として、同期入学者より1年早く4年で終了し、所謂飛び級で、北大(医類)に進学した。北海道大学の良さを教えてくれたのは、北の大地に赴任していた20歳違いの、尊敬する長兄のアドバイスがあったからである。札幌には、桜井家の親戚となる、高桑家があったのも心強かった。その高桑家の養子となったのは、終戦の年であった。分水町は、高桑榮松氏のこころのふるさとでもある。「東京分水会」は、高桑榮松氏臨席のもと、郷里・分水町出身者の首都圏在住者で賑わう。北大医学部教授・学部長として医学教育界に貢献、政治家としても参議院において、委員長などの要職を歴任し学問と政治を結びつけた功績により、平成7年11月3日、勲一等瑞宝章の叙勲に輝くが、そんな気負いは無い。平成13年、分水町は、高桑栄松氏を名誉町民に推薦した。(写真は、棚橋かう・分水会副会長のあいさつを聞く高桑榮松氏(中央)その右に弟の医学博士・桜井忠作氏、右端のYシャツ姿は小林清町長。偶然にも全員が巻高同窓生であった)。

高桑栄松氏、大学紛争時代を語る
現在60代以上の巻高同窓生は、大学紛争で明け暮れていた昭和40年代に学生時代を過ごした者も多いと思うが当時の私は、教授の立場として、学生たちに対応していた。北大医学部では、全共斗系と自治会系の2派による、学生団交が毎週交互に行われており、自宅を出て大学に向かう際、「今日は監禁されるのではないか、明日まで体が持つであろうか」と心配しながらの毎日だった。団交で彼らが求めたものは、「論争」であった。だがテーマを掲げて論争して行くうちに一貫した論理から外れて、「師弟関係の基盤とは何か」を理解できなくなってしまう事もある。私が学部長になる前のことであったが、ある時、学生の代表が学部長に対して「お前は・・」と切り出した。しかし教授側は皆沈黙していたので、私は思わず「学部長を "お前”とは何だ、貴様・・」と怒鳴りつけてやった。すかさず学生は「貴様・・とは何だ」と言い返し「教授も学生も同格だ」と主張する。こんなやり取りが度々続いた。私は「教授は君達より偉いとは言ってない。但し医学で経験を積んで教授としての能力を証明された"アビリティ"者 であり、君達は、これから活躍が期待されている "ポシビリティ" 者であるからこそ、しっかりと学んで欲しいのだ」。常日頃自分が信念とする、大学のレーゾン・デートル論を展開していた。又、学生の出席規定をめぐり、1年近くも論争が続き、クラスの70%近くが留年(卒業延期)となった事は、全国医学部・医系大学の注目の的となった。しかし交渉のリーダー的グループが、やがてその否を己で認め後輩に向けて「自己批判」のメッセージを発した事で、若い学生の柔軟性を目前にして、真から医の教育倫理を理解してくれた事において感無量であった。その彼らは現在立派に、医療の世界で精励していると信じている。

高桑栄松氏は参議院議員当時を回顧する。「仮に私が、国立研究所の所長であったとしたら、予防検査の如く莫大な予算を伴う提唱に対して国は先ず相手にしてくれない。自分が国会議員であったからこその対応であったのだろう。政治家としての発言の重大さを改めてかみしめている。学問と政治を結びつけたことに意義があり、これからも予防医学者として、私のレーゾン・デートル(存在理由)を極めていきたい」。

【参考資料】 高桑栄松回想録
参議院会議・議事録 第104回国会・予算委員会第9号

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