〜大澤孝司さんプロフィール〜
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- 昭和40年3月巻高卒業、東京農大へ。昭和44年、帰郷して県職員に。
- 突然姿を消したのは、昭和49年、2月24日(日)。場所は、曽我ひとみさんが拉致された現場の近く、佐渡・新穂村でした。
- 大澤さんは、当時、新穂村にある佐渡農地事務所の職員でした。
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大澤さんが最後に立ち寄ったのは
- 大澤さんは、当日は、寮から500m離れた焼肉屋で夕食をすませています。
- 焼肉屋では「今日は隣の金井町で木彫りの仏像を買ってきた」と言って包みを持っていたそうです。
- 夕食を終えると、「さて、帰って休むか」と言って、焼肉屋を8時頃出ています。
- その後、近くの煙草屋に寄りました。(趣味でやっていた猟銃の期間が終わり、猟友会役員である煙草屋のご主人に許可証を返納するためでした。)
- 店先で奥さんに狩猟の許可証を返納し、店を出たまま、大澤さんは消息を絶ちました。
必死の捜索もむなしく
- 巻町の実家に農地事務所から連絡が入ったのは翌々日の火曜日。お兄様の昭一様がフェリーで佐渡に渡ります。
- 翌水曜日から親戚、警察はもちろん、農地事務所の全職員、近隣の村の人たち、消防団など、200〜300人体制で島内くまなく捜索。しかし、ようとして行方はわかりません。
- 寮の部屋には、現金、通帳、衣類はもちろん、大好きなカメラもそのままで、何か持ち出した感じはまったくなかったそうです。
- ただ、大澤さんが煙草屋を出るのと前後して、店に入ろうとしたが入らずに急いで走り去った2〜3人の男がいたことと、その直後、ブレーキか急発進か、タイヤのきしむ音が聞こえた、という情報がありました。
- また、北朝鮮のマッチが近くに落ちていたそうです。
お兄様の昭一様は、当時をこう振り返ります
- 「島外に出た形跡はなく、見た者もなく、死体もなく、交友にも不審な点はなく、残念だが『神隠し』としか言いようがない不思議な事件だ、と当時の警察の方が言われた言葉がいまだに忘れられません。」
- 「その頃はまだ『拉致』という言葉さえ、誰も思いつかない時代でした。」
- 「まして、人間を『シナ袋』に入れて連れ去るなんて考えられないことでした。」
日本中を駆けめぐった突然のニュース
- 平成15年9月、突然、北朝鮮による拉致被害者帰国の衝撃が私たちを襲いました。
- とりわけ、曽我ひとみさんの拉致が判明し、平山県知事の「新穂で失踪した大澤孝司さんも拉致に間違いない」という言葉にご家族は勇気づけられます。
お兄様の昭一様は私たちにおっしゃいます
- 「今、この問題で、政府を動かして次の行動に出てもらうには世論の後押ししかないんです。」
- 「世論の後押しがないと何もできない国なんて残念ですが、現実なんです」
- 「どうぞ拉致問題に関心を持っていただいて、国の犠牲となり寒い北朝鮮でふるさとを思っている私たちの兄弟・家族の一日も早い究明・救出をご支援くださるようお願いいたします…。」
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(文責:連絡会) |
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